伝燈院 赤坂浄苑 副住職 角田賢隆
初秋のみぎり、当苑ご関係者様におかれましてはいかがお過ごしでしょうか。
平素より当苑護持にご協力いただき順調に寺院運営を進められておりますこと皆様には感謝申し上げます。
赤坂浄苑はより多くの方からご縁をいただき仏教に触れていただくように、宗旨宗派を問わず受け入れておりますが運営主体の伝燈院は「曹洞宗」のお寺でございます。
そこで今回は曹洞宗の開祖であり、大本山永平寺をお開きになられました「道元禅師」についてご説明させていただきます。
道元禅師(以下・・道元)は西暦1200年「京都」でお生まれになられます。
諸説ございますが、父は「久我通親」(内大臣)で母は藤原基房(太政大臣)の娘「伊子」とされており、村上天皇の子孫である村上源氏(公家)の家柄だったのは間違いございません。(永平寺の寺紋が久我竜胆紋なのはこの為)
両親はともに政治の中心に身を置き政治に翻弄された人生を歩んでおりましたが、3歳の時に父を、8歳の時に最愛の母を亡くすという幼い道元にとってはとてもつらい悲劇に見舞われます。
この出来事により世に無常を感じた道元は仏教にひかれるようになり、持って生まれたたぐいまれな頭脳で9歳の時には難解な経典を読破したと言われております。
家柄も頭脳も申し分なく、一族から後は政治の中枢に身を置くことを切望されておりましたが、やはり仏心は捨てきれず4歳の時に当時国内仏教で最も権威があり、 身内に対関係者もいる「天台宗」「比叡山」で出家するのです。
比叡山においても才能を発揮し将来を期待された道元ではありましたが、天台宗の教えである「本来本法性」 (人は生まれながらに仏である)という教えに対し、なぜ仏であるのならつらい修行を重ねなければならないのだろう、という疑問に答えが出ず外の世界へ答えを求めます。
中国より教えを持ち帰り、日本最初の禅宗「臨済宗」の開祖である「栄西」が建立した京都「建仁寺」に修行の場を移します。 道元は栄西の弟子であり高僧の明全に師事し禅の教えを学びます。
6年間修行を重ね道元の心に中国に渡り本場の「禅」を学びたいという気持ちが強くなってまいります。
当時は船旅しかなく沈没する確率の方がはるかに高い時代でしたので、その決心は相当なものであったことがうかがえます。
道元が24歳の時、その思いに同調した明全と共に中国に渡りますが、とても有名な老僧との逸話がございます。
ある夏の暑い昼下がり典座役(修行道場の食事係)の腰が曲がった老僧が汗だくで椎茸を干しています。みかねた道元は「若い人にやらせるか、もう少し涼しくなってからやられてはいかがですか」と声をかけたところ、「人にやらせては私の修行になりません。今干さないでいつ千すのでしょう」と返され言葉に詰まります。
仏道とは書物から知識を学ぶだけではなく実践して初めて意味があることだと思うようになります。
その後、正師となる如浄禅師と出会い大きな悟りを得ます。中国で5年間の修行を経て8歳の時に帰国いたしますが、修行で得たことを「眼横鼻直を知り空手還郷す」と示しています。
文字そのままの意味では「目は横について鼻は縦についていることを知って何も持たず帰ってきた」となりますが、仏教的には「当たり前のことをありのままに受け入れる大切さを知り、経典など手で持つことのない尊い教えを体得し帰ってきた」ということでしょう。
帰国後、道元は教えを説くため沢山の著書を書き残し、後年に曹洞宗の本山となる「水平寺」を建立いたします。その間沢山の弟子を養成し54歳でその生涯を閉じられます。
残された言葉に「この法は人人の分上にゆたかにそなわれりといえども、未だ修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし」とございます。
俗世向けに意訳すると「仏の優しい心は誰しもが平等に備わっているが、正しい行いをしなければ芽生えてこない。その意味を知り心の底から行動できなければ真実の心の安心を得ることはできませんよ。」と語りかけているのではないでしょうか。