伝燈院 赤坂浄苑 副住職 角田賢隆

副住職 角田賢隆

 初夏のみぎり、皆さま方におかれましてはいかがおすごしでしょうか。梅雨が明けますと「お盆」の時期を迎えます。今回は仏教におけるお盆、お寺で行うお盆に焦点を当てご説明いたします。

 仏教ではお盆を「盂蘭盆」といい、サンスクリット語の「ウランバナ」という言葉に対する当て字です。「ウランバナ」は「逆さ吊り」という意味なのですが、これはお釈迦さまの弟子である「目連尊者」のお母さまが地獄に落ち、逆さ吊りの刑にあうという故事にちなんでおります。母親は我が子可愛さゆえに、他者への施しを惜しんだ悪因によって地獄に落ちたのですが、目連尊者はお釈迦さまのアドバイスにより、雨季で集まっていた沢山の修行僧に施しを行います。そこで得た膨大な功徳を母親に差し向け(回向)地獄より救い出しますが、その施しを行った日が旧暦の七月十五日なのです。

 また、仏教では六道輪廻という考え方があり、人は六つの世界(天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)を輪廻(生死の繰り返し)し、苦しみの世界を生きるとされます。特に生前欲深い人は飢えと渇きに苦しむ「餓鬼界」に餓鬼として転生しますが、餓鬼は喉が細くものが食べづらいうえに、食べ物はすぐに燃えて塵となってしまう大変哀れな世界です。
 餓鬼に関わるお話に、お釈迦さまの弟子である「阿難尊者」が、自身の死期を知らせた餓鬼に対し施しを行い、餓鬼を救い、自身も長寿を得たという故事があります。

 この二つのお話が仏教における「お盆」(盂蘭盆)の元となっております。

 お寺の仏事では後者の「餓鬼供養」を時期にかかわらず行っていますが、大体は前者の「盂蘭盆」と合わせ「お盆供養」として七月か八月に勤修いたします。(七月か八月かについては明治の改暦が起因しますがここでは割愛)伝燈院では場所の都合で行えませんが、規模の大きなお寺ですと本堂の反対側に「施餓鬼棚」を出し、餓鬼に対する供養を行います。法要では真言を唱え、「洒水」で、渇きに苦しむ餓鬼にお水を施し、「水の子」(洗米に細かく切った茄子と胡瓜を混ぜたもの)をまき、喉が細い餓鬼の空腹を癒やします。

 仏教の根本は「縁起」です。縁起とは、様々な物事は他者とのかかわりによって生じ、自身の行った善い行いも悪い行いも、巡り巡って自分に返って来る(繋がっている)という教えです。ですから行の一つとして「利他」が説かれます。利他とは他者の利を優先することであり、他者の幸福を願い、手助けすることが、自身の幸せと同列で進行すると考えます。まさしくお盆の施餓鬼供養は餓鬼界に落ちた者を救う「利他行」であり、同時にご先祖さまと自身の幸福を願う法要なのです。

 お釈迦さまはお生まれになった際、七歩歩かれたという逸話がございます。これは先ほど出た六道輪廻を超越した存在を意味するとされますが、私たちは人である以上、六道輪廻の中で苦しむ存在です。誰しもが心の中に善と悪(欲・怒り)を持ち合わせております。よくやんちゃな子供を「悪ガキ」と言いますが、子供は精神が十分に発達していない為、あれやこれやと欲しがります。その欲深さをガキと形容したのです。

 「餓鬼」は大きく分けて二種類あります。一つは現状お金や物が無く、常に欲しがる餓鬼です。無いことにより心が貧しくなり、自分本位でしか考えることが出来ません。もう一つはお金や物が十分にあっても満足できない餓鬼です。

 さらにさらに欲しがりますので際限がありません。私自身も昔、師匠から「十万円で足りない者は百万円あっても足りない、足るを知りなさい」と教わり、今でも強く記憶に残っております。

 お盆(施餓鬼)の時期でございます。皆さま方におかれましては、生きながら餓鬼道に落ちませんよう「縁起」を理解いただき、今生かされていることをご先祖さまに感謝し、「利他行」を実践いただきますと大変ありがたく存じます。

伝燈院 赤坂浄苑 角田賢隆 拝